福島の汚染土貯蔵

昨日は細野環境・原発担当大臣が、放射性物質汚染土壌の中間貯蔵施設を、12ヶ所に設置するとの提案をした。

中間貯蔵施設を作るにあたって、地質、水脈等が重要なので、その調査をするのだろう。

東京にいる我々の近隣でのホットスポットは5μsV/hでも驚く値であるが、現地の放射線量はこの比ではない。

小社は福島を度々訪問しているが、市内で20~40、I温泉では55μsV/hと桁違いの場所があった。

我々が入れる地域でもこの数字、昨日の候補地ではもっとすごいことになっていることだろう。

難航することが予想されるが、当事者の身になれば当然だろう。 それも期待を持たせた割に除染法すら未だに確立出来ていない。

情けない話だが、こんな調子で故郷を中間貯蔵施設に差し出せるだろうか。                                                                                

下手をすれば、中間・・・が最終になりかねないのが透けて見えるような気がする。

どこまでも罪な放射能汚染問題は、延々と続く。

トイレ考

今朝携帯が鳴ったのでとると、大手旅行会社の役員H氏だ。

休日に何事かと思いきや、海外旅行でトイレに行った際にウォシュレットがない為、お尻の洗浄ができないので困る、という人が増えているらしい。

何とかならないかとのことであるが、以前小生が使用した事があるINAXの「PIPI」の話をした。

携帯用の水洗器具であったが、すぐ壊れてしまった。 使い勝手もあまり覚えていないが、快適というものではなかったと思う。

 この話には続きがあるが長くなるので、トイレについて考えたことを書いておこう。

排泄様式はお国によって様々で、昨今アジアを旅することが多くなって、土産話がトイレの話というので盛り上がる。

中国での体験では食物連鎖の途中に池で飼っている鯉、まさかと思ったが夜に出てきたのが鯉の姿蒸しで箸が止まった事がある。

時には笑い話になったり、深刻極まりない事態に陥ったりの「トイレ」であるが、その国のトイレ文化であるから価値観が違うのだ。

我々はウォシュレットで水を使って清潔だと思うが、ついこの前までは「厠」「はばかり」「雪隠」などと呼ぶぽっちゃんトイレだったのだ。

清潔思考が文化レベルと比例するかというと、ウォシュレットが世界に広がらないことを考えるとそうでないのかもしれない。

 

孔子の里と姉妹都市

中国と国交正常化40周年というのに、尖閣諸島に香港から上陸して、強制送還された。

お互いにどうなっているのかさっぱり分からないが、何となく日本側の度胸のなさに引っかかる。

 そんな折り、八王子市が姉妹都市協定を結んでいる中国・山東省泰安市から児童楽団が来るということだ。

と言うのも、本日昼食に行ったホテルで知人に会い、25日に行われる児童楽団の招待状を頂いたものだ。

言わずと知れた孔子の里・泰山である。 行ったことはないが中国三名山の一つである。

約2500年前、春秋時代が孔子の生きた時代だが、政治経済が混乱し民衆の生活は困窮を極めた。

このような状況下で、「君子たれ」と説いている。 君子とは7つの心得を持って人生確立を目指そうというものだ。

仁・義・礼・智・忠・孝・信が7つの心得だ。 

日本中が自信を失っている状況を感じる現在、先人たちの教えに学ぶのも得るものがあるように感じた日である。

 

 

 

 

 

ドアクローザー

お盆休み明けで、今日から会社をスタートさせた上野原の会社にお邪魔した。

小社のお願いもあったが、訪問先の開発商品に興味があったからだ。

「ドアクローザー」である。

ドアの上に、くの字に曲げ伸びするアーム型部品がついていて、ドアをスムーズに開閉するためのものだ。

今日見たものは、アームがなく、油圧でなくて空気圧で動かす優れものだ。

荷物を持っての出入り、ペットのいる部屋、介護関係、ホテル等使用すると便利になる場所はいっぱいある。

ただ日本の場合、良いものがなかなかお客様まで届かないことが多い。

 帰途は甲州街道を使って正解、中央道は1時間の渋滞なのに我々はスイスイと帰ってきた。

高速道路は低速であった。

 

阿吽の間

お盆である。 故郷に帰省していた人々が戻る頃で、道路や新幹線、飛行機が混雑している。

東北では2回目のお盆を迎え、魂がお盆に帰ってきても帰る家がわからない事だろう。

何と情けないことだろうと思っている人が、大勢いることを忘れてはならない。 未だに行方不明者が2,800名以上いるのだから。

 この時期はお寺と関係することがよくある。 

寺を入ると二つの像に出会うが、阿像、吽像である。

口を空いているのが阿像で、口を閉じているのが吽像である。 

何を表しているかというと、人間の一生だ。 人間は「あ~」と口を開いて生まれ、「う~ん」と口を閉じて死んでいく

つまり、人間の一生を表現しているのだ。 一生はたかだか「あ」と「うん」の間でしかない。 されど、一生、今を無事に大切に生きたい。

高尾山で「今日只今」というのを見て、僧侶の解説にこの文言の後に「是無事」を読めと言われたことがある。

多分、同様の意味があるのだろう。