セクハラ行為とは

12gatu東京都議会での「セクハラ発言」は、自民党の鈴木議員の首を差し出して幕引きを計り議会を閉幕したが、まだ燻った状態だ。

自民党の石破幹事長が名乗り出て欲しいと、自派の議員に呼びかけるのも珍しいことではある。

聞くに堪えない「女性蔑視」の悪質なものだから、徹底的に解明したほうが良いと思う。

根底には「議会は男のもの」「議員には年期が必要」・・・といった男尊女卑、村社会の思想が感じられる。

ところで、セクシャルハラスメント(セクハラ)で、訴えられることをちょっと調べてみた。

「まさか」「日本の常識が?」・・・セクハラ?

アメリカなどでは、「子供はいるの?」「家族は何人?」などと、執拗に聞くことは該当する。

相手が望まないプライバシーに関する質問は「アウト」なのだ。

褒め言葉も危ない。

「口紅が良く映えている」「その洋服セクシーfだね」「ストッキングの色が魅力的だね」等は危ない表現だ。

親愛の情を示すのに、何気なく肩に手を置く、思わせぶりに見つめる、1対1の食事に誘う、未婚か既婚を尋ねるとか、性的なジョークを飛ばす事も危ないといわれる。

まだまだ日本では生ぬるいが、今度の事件でセクハラ行為に対しては厳しい目が向けられるだろう。

西郷どんと豆

__わが故郷・鹿児島では「西郷隆盛」の人気は絶大だ。

小生に座右の銘は?と聞かれることがあれば、「敬天愛人」と答えるだろう。

鹿児島の城山でその生涯を終えたことから、城山の目立つところにこの文字が読める。

ところで、西郷さんの人物を判断する逸話に、次のようなものがあるので紹介したい。

西郷隆盛が江戸攻撃を行おうとした際、官軍には軍資金がない。

西郷は大阪の大商人を頼り、資金調達に出かけた。

そして、同行人一同と一室で待たされた。

お茶菓子に煎り豆が出される。

なかなか姿を見せない主人に業を煮やし、同行人たちは豆を手でつかんでは口に放り込む。

西郷さんは、手にした豆を一粒一粒口の運ぶ。

やがて主人が出てきて、すぐに「金は出しましょう」と言った。

「事情も説明せずに」と問うと、「今、豆を食べるのを実は他所から見ておりました。そのお姿を見て、こういうお方なら、金を任せられると思いまして」と主人は答えたそうだ。

人が人に接するときの思いやりや気配りに、その人なりの人格が出るのであろう。

人格や教養と言ったものは、ちょっとしたしぐさや応対に出てくるもの。

見る人が見れば、はっきりわかってしまうものだ。

 

おしゃれになって、気使いも

あさがお街や訪問した会社で見かける人たちの姿は、随分オシャレになってきた。

男性はノーネクタイのクールビズが定着して、デザインのオシャレなシャツを着こなしている人が多い。

眺めていると、カッコ良くなったなーと、つい思ってしまう。

男女を問わず、オシャレに気を配らない人は少ないだろう。

オシャレで清潔、それに知性や教養をプラスできれば「美しい人」となるのかな。

知性や教養は英会話であり、市民講座であり、様々なカルチャーの吸収であるかのようだ。

ただ、知性、教養はそれだけのものであろうか?

昨日のレストランで見かけたOL。

サラサラの長い髪が食事中に邪魔になるのか、髪を押さえながら前かがみになって、スプーンに口を運ぶ姿ははっきり言って見栄えのいいものではなかった。

また、上司と部下が一緒の席で、先に部下のところに料理が運ばれた。

彼は何も言わずに食事を始めた。「お先に」ぐらいはあっても良いのにな、とつい思ってしまう。

小生は古いかもしれないが、おしゃれの原点は「清潔」「上品」「控えめ」であろうと思っているが。

サッカーが終わり大粒の雹が

地球ザックジャパンとか言って大騒ぎし、奇跡が起きることを・・・

とうとう日本のワールドカップは終わったのだった。

世界のサッカーレベルに追いつくのには、もう少しと言うか、まだまだと言ったほうが良いかもしれないな。

昨日は東京・三鷹や調布の辺りで雹が降った。

映像を見るに、局部的に大量の雹が降っていて、量も半端でないのだ。

長靴で歩いていたが、多い処では15㎝程積もっていた。

こんな雹は見た事がないと口々に発していた。

近年の天候は、「想定外の・・・」という表現が多いが、果たしてどうだろうか?

天候に関しては、自然の営みであるから人間が制御できるものではない。

人間は時に驕りが出てしまい、自然の力の前に打ちひしがれる。

東日本大震災、大津波しかり、記録的大雨とか、何かと言うと予期しないことが起きたような報道だ。

日本を取り巻く自然環境は、大きな変動をしているのは明らかなのだ。

東京などは亜熱帯に属して、フィリッピン並みの気候と考えなければいけないのではないかな。

良い心が良いことに出会う

雑感

木のイラスト「良い心が良いことに出会う」・・・武蔵野クリーニング様に頂いたカレンダーに書かれた言葉である。

今年の正月にも書いたが、「夢をかなえる学校」に書いてあることを、実践しようと心掛けている。

上の二つは同じことの教えであり、人生の羅針盤になるものだ。

それは、難しい理論でも難しい行動でもないのだ

まずは、気持ちの持ち方である。

夢を持つ。良くなると決める。奇跡は起きるものだ、と言い聞かせる。

夢は、サクサク叶っていく、と心で呟く。

このような心の持ち方をすることが大切なことなのだ。

「時間がない」「お金がない」「人のせい」「環境や境遇のせい」・・・できないことを自分以外の「何かのせい」にすると、その時は気が楽になる。

でも、結局は目の前のことから逃げているか、先送りしているだけだ。

 ありがとう、感謝していますの思いで生きてみようよ。

人に優しく、全てのものに優しく生きてみようよ。

たったこれだけで、思いもよらないような出来事が叶うことが、次々と起きてくるのだ。

「優しく」「良くなる」が、小生のキーワードだ。