父という余分なもの

このエントリーをはてなブックマークに追加
はてなブックマーク - 父という余分なもの
Share on Facebook
Post to Google Buzz
Bookmark this on Yahoo Bookmark
Bookmark this on Livedoor Clip
Share on FriendFeed
[`grow` not found]

親の立場では、子供が成人するとその存在比重が小さくなる。

それは成人まで育て上げたのだからという、責任感からの開放であるかもしれない。

特に小生は、家庭のことは妻任せであったから開放というにはおこがましいが。

 ところで、猿の社会では父親不在でも子は育つのに、なぜ人の家族には「父親の存在」が不可欠なのか。

このように語っている人がいるので、面白い?から紹介したい。

人間社会は他の動物社会と違って、全て何かゴールを仮定してそこを目指す、という虚構で成り立っている。

ゴールの先には必ず快楽が待っているわけですが、その虚構の極めつけが「父親の存在」である。

ただし、子を産むという積極的な動機のある母親と違い、もともと余分な存在であった父親という虚構は立場が弱い。

この弱い虚構を支える必死の努力が人類を文化的な存在に押し上げたのだ。

だから、父親こそ人類最大の発明である。

こう書くと、父親不要のように聞こえるかもしれないが、そうではない。

父親の存在を否定することは、人間の能力を否定することにつながるから、父親は偉大なのだ。

 

コメントを残す

*

Spam Protection by WP-SpamFree

トラックバックURL:
http://blog.reino.co.jp/wp-trackback.php?p=769&_wpnonce=d762541af5